NÖW ii SEE

NÖW ii SEE

 

NÖW ii SEE

 

とうとう 視えてきた

あいまいだった その存在は

魂在る輪郭に 姿形を現わしつつある

 

縄文の人間たちと おなじ視点を

手に入れられるまで あとほんの少し

想像できる力が もっとほしい

 

10000年の 時をむすび

共鳴を イマはじめる

ジョウモナウ なぜとおもう

 

 

JOMONÖW
Imagine Why It Is

 


 

この「想いい」でも何回かとりあげている「縄文」。

ここ数年は「一日一縄(いちにちいちじょう)」をテーマに、縄文に対しての気づきや想いをしたため、整理し、土偶を描いたり、捏ねたりするのを日課としており、その濃厚な「日縄(にちじょう)」のおかげで縄文というものが自分の中で整合性を持ちつつあり結果、土器や土偶の視方というものがかなりわかってきた。

具体的には、「縄文とは何か?」「土偶とは何か?」というものが、高い解像度で視えてきている。それは、ゆるふわの詩的なものや、荒唐無稽な神話的なものでもなく、岡本太郎の熱量的激烈で押し切るものでもなく、一部の巷を騒がせている植物祭祀説でもない。人間の中枢に関わるものだと考えている。

それは、縄文の人間たちが彼らの思想をいかようにデザインに昇華させたのか、その工程を想像的に解析したものだ。

いち早くみなさまにお伝えしたいのだが、長い文章の書き下ろしは、はじめてことなので試行錯誤を繰り返す毎日だ。今までは文章や言葉というものを、いかに視覚化するかというところに尽力してきたので、反対の方法論に少し戸惑っている。

そもそも縄文文化とは、文章による記述が存在しない時代。本当の意味での言語化はむつかしい。縄文の人間たちのコミュニケーションも中心は視覚であり、その中核を担っていたのがまさに土偶であろう。

最終的には、縄文の人間たちのこころを想像することしか、それらを理解する道は開けないという確信がある。科学がいくら進歩しようとも解き明かせないもの。

だからこそ想像するのだ。
その想像的解析なるもので、わたしは縄文や土偶をもっと知りたい。

これがテーマである。(ホントは「繩紋」としたいところだ。紋様は紋であり文ではない。が、ややこしくなるので一般的な「縄文」でいく)その想像的解析の内容は、センセーショナルなものや、従来の考えをまるでひっくり返したようなものではなく、誰もが素直に「!!」と腑に落ちるものだ。縄文の人間たちと現代の人間たちとはあたりまえだが通底するものがあると考えている。じっくりと十年以上も「日縄」を傍らに生きてきた現れだ。真実は地味である。

そして何よりも大切なことは、その縄文をイマにどう生かせるかということ。
それこそが“JOMONÖW”の目指すべきミッションである (㊀ö㊀)

JOMONÖW
Imagine Why It Is