ムレナイ
ブレナイ

ムレナイ<br>ブレナイ

いわゆる「つるむ」のが苦手で好きじゃない。

あまのじゃくを意識している訳ではない。(あまのじゃくなところは多いにある)
流行りの逆を張っているという訳でもない。(「ていうか」と、言わないように気はつけている)
はたまた、孤独を愛している訳でもない。(一人でいても苦ではないが、一人っきりで生きていきたいわけではない)

例えば、自分の車と同じタイプで集まったりとか、誰かのファンクラブに入るとか、そういった事はしたことがないし。同じスポーツのチームをみんなで一緒に応援するとか。コンサートで、みんなで同じフリで踊るとか。皇居の周りをランニングするとか。古くはネットのフォーラムやらで集まったり、SNS系で友だちを探したり、つながるのも好きでない。(それらを純粋に楽しめる人たちは、それはそれでうらやましいと思う気持ちもあったりはする)

思い起こせば子どもの頃から、何かに属することに違和感があり、どこにも所属せず、それでいてみんなと仲良くしているのが心地よかった。ガリ勉も、オタクも、ヤンキーも。徒党をすぐに組みたがる人たちは、苦手だった。

何だろう?肉眼で認識される連帯感みたいなものが、性に合わないのかなぁ。

そもそも古代、人間はそんなに多くの人たちと「あえて」群れる生き物ではなかったんじゃないか?

例えば、縄文時代。
人口は現代のようにいなかったという前提もあるけれども、基本単位は家族プラスαくらいで、狩にでるときはムラのチームで動いたり、共に動く日常の社会単位もせいぜい30人くらいだったといわれる。集落の大きなもので150人くらいだったとか。

その人数は、人類学者ロビン・ダンパーの言う「安定的な社会生活を維持できる集団数は150人」説と同じだ。

三内丸山では500〜600人くらいで生活していたという数字もあるけど、あそこは他とちょっと違う場所だったんだじゃないかと思う。ギョベクリ・テペとか、全国から人が集まる情報交換的な処じゃないかと。
ついで、三内丸山のあの大きな見晴らし台には違和感が満載だ。
高いところに登るという行為は、何だか自然に対して征服的に感じる。縄文的じゃない。あれはストーンヘンジ的なただの6本柱だったんじゃないかと、現地で直感的に思った。

このあたりの人数というものは、生きていくための群れの人数なので、現代の群れの人数とは意味が大きく異るが。

現代の何千人もいる大企業の統制をとるという事は、人間的にはかなり不自然で無理ある数字なんだろう。SNSの友だちやらフォロワーが何千人とか何万人とか、そういった数字も人間の身体性を伴っていないものだ。

かくて、縄文時代に趣味や傾向で似ている人たちが集団になるということはなかっただろう。もちろん個々人の作る土器などの嗜好性はあれど、それはそれで置いといて○○系とかでつるむとか、そういった必要性は全くイメージがつかない。

わたしも子どもの頃に転校して、それまで友だちは多い方だと思っていて、それがだんだんと疎遠になり、しばらくすると名前さえも思い出せない友だちたちが増えていくと「友だちは数じゃないなぁ」と感じたのを覚えている。今でもつきあいがあるのは12人とかそんなもので、それで特に困ったりはしない。

たまに聞くけど幼馴染でずっと仲良しって奇跡みたいなもので、いなくても当たり前。たまたま同じ時期に、同じ地域で出会っただけのこと。そもそもホントに分かりあえる人に出会えることこそめずらしい。

氾濫している言葉づかい、流行りの言葉づかいもに、ムズムズときてしまう。
今どきで言うと「ただただ」とか、書き手のプロが使うと表現を放棄しているように感じてしまう。「ただただ」には、全然言葉の深みや重みが感じられない。
「させていただく」とかも勝手にへりくだるのも気持ちが悪い。それは神の裁量でさせてもらっているほどのものではない。
「パンパない」とかも論外。芦田愛菜がテレビで「半端ではない」ってちゃんと言って、さすが自分があるなぁと感心した。

「群れのコミュニケーションは同じ言葉をつかう」と、梨木香歩さんの本で書いていたのを目にした時は「わたしが言いたかったのはまさにそういう事です!」と、思うと同時にプロ作家の言語化する能力に唸らされました。

聞き馴染みがあるからとか、深く考えずになんとなくその言葉を使っている、その姿勢に違和感を覚えてしまうのだと思う。よく聞く言葉を使うのは、ある意味自分の言葉をないがしろにしていること。こころの中は一人ひとり同じではないはず。そのこころを表現する言葉も同じではないだろう。と。

「ムレない」と「ブレない」の関係性は、やっぱりあるんだと思う。

ブレる、ブレないとは自分の「地軸」みたいなもの。「自軸」?
感覚的には、地面と足とがどう接地しているのかという、根っこの部分。
あっちこっちと植えかえしても、いつまでも経っても根は育たない。

人類の歴史をみても人間の多様性というのもは明らかだ。
それぞれの人間たちが、得意な特性を伸ばしていった先に人種というものが出来てきた。アフリカからはじまった人類が、ある人間は移動を試み、北に行く人間、東に行く人間、それぞれに考えあっての行動をしていった。ある場所で定住する人間、さらにさらへと動く人間、とてつもないバリエーションを経て今のわたしたちが存在している。

ひるがえって(人類の歴史では)小さな事でいうと、得意なこと、好きなことこそ自分が努力をすべき事なんだと思う。人生は、苦手なことを克服することに時間をかけるには短すぎる。人生をややこしくさせるのは、そんな事ではないだろうか。

自分の無理がきかないことは、無理しない。
無理がいけそうなことは、無理をしてでもやる。

縄文人を食したであろう植物のゼンマイのように、シナヤカニ生息していきたいものだ (㊀ö㊀)