かるやかな
おおらかさ
サヴィニャック

かるやかな<br>おおらかさ<br>サヴィニャック

ユーモア、アイロニー、エスプリとかさまざまな言葉で、さまざまな方たちに表現されておりますが、わたしの想うレイモン・サヴィニャックの魅力は、たとえブラックな表現であっても「愛のある笑い」が最終的には勝るところ。

多くを語らず、説明は(ほどよく)親切ではなく、まるで連想ゲームや一コマ漫画を見ているような楽しさがある。マグリットとは、また違った趣き。彼らは同じ広告畑の出身者だからなのか、アプローチには相通じるものがあれど、フィニッシュされた作品は、それぞれ違った魅力をそれぞれに持っている。

アイデアは、ベタなストレートなものが多いが、安っぽいギャグにならずに品がある。それは、このかるやかでおおらかな脱力感と完成度を併せ持つ絵がなせる技。サヴィニャック自身のキャラクター(飄々としたその雰囲気)からも、それは感じとれる。

サヴィニャックは、1907年の生まれ。94才までの長寿だった。独学でデザインを学び、一時期カッサンドルの事務所で助手をした後に、41才で牛のモンサヴォン石鹸広告で成功。本人曰く 「41才で、牛のおっぱいから生まれた」 と言っていたらしい。7972才でトルーヴィルに移り住む。86才(!)でデザインしたトルーヴィルの紋章は、カモメの羽がTROU「V」ILLEになったもの。とてもモダンなデザインで、老人の作には見えない。確かに改めて見直してみると、サヴィニャックが画風を定着してからは、いい意味で作品の年代は不詳だ、まったく古びない。

先日、真鶴の中川一政美術館に行ってきたが、中川一政も独学のアーティスト。真鶴に移りアトリエを建てたのが56才で、それから97才まで描いて生きつづけた。氏の書で「無師獨悟」。


教わるということは人から餌を与えられることである。

独学とは、自分のレコードを更新させることで、世の中のレコードは関係なく、人と競争しようとは思わない。

独楽は地面にたたきつけられてまわる。そんな画をかきたい。

ー 中川一政


強い覚悟が感じられる言葉だ。向き合う相手は自分なのだ。コンペや賞などに醒めていくのは、その部分が大きい。独学って自らだけで学ぶということでなく、それはたくさんの師を、自分で探して「まねぶ」ことなんじゃないかとも想う。独学かどうかとは、学びの姿勢が能動的かどうか。八百万の先生が世界には存在している。師というもの、人間だけはなく、自然なり、動物なり、それらからどこを学ぶのか。

96才で書かれた「正念場」という文字からは、100年はおろか、もっと永い時の幅で人間の人生を考えていたのか。さすが、「美術」ではなく「生術」とした人だ。

中川一政美術館の題字。絶妙なバランスで文字を読ませる。そして、この赤い┫の記号。これははじめて見ると「何だこれは?」となるだろう。わたしもなった。この看板の向かって左手に美術館の入り口があり、その方向を指し示している矢印であり、ロゴでもある。このロゴには、「記号の機能性で大切な、考えずに分かること」という部分を反対に「考えないと分からないもの」にしている面白いデザインだ。他にももっと深い意味があるんじゃないかと勘ぐってしまう。永い時間、対峙できる味わいが深い存在だ。

サヴィニャックも中川一政も海のそばに終の棲家を見つけ、その地域と共生しながら、地元の人たちにも愛されていたんだろうなぁ。好きな地域を見つられるということも、人生で大切なこと。

彼らからは、好きなことや新しいことは、いつ始めても遅くないと勇気づけられる。人生はいつでも、イマが一番若い。

サヴィニャックの絵で好きなモノは多々あるけど、「毛糸人間」。これ改めて模写してみるとウネウネしていて、かなりキワモノの縄文人ですね。でも何でだろう、気持ち悪くならず可愛さが勝るのは。ハート型のこの顔は、まるでCOMME des GARCONSのPLAYだ。

そもそもハートという形とはいったい何であろうか?どこから生まれたのか?石器時代から壁画に残っており、縄文時代もハートをデザインした土偶は多く出土されている。「縄文のビーナス」をはじめとして、ハートのマスクをこの上なく強調した、そのものずばり「ハートの土偶」まで。アフリカン・マスクでも、「クウェレ族」のものはハートが多用されている。古代より多くの人間たちを魅了してきたフォルムのひとつなんだろう。

しかし、この♡のフォルムを最初に「ハート」と呼んだ人のネーミングセンスには感心する。と、同時に古代では♡をどういう音で、呼んでいたのだろうか?

サヴィニャックの絵は、立体にするとコンセプトが際立つ。吉村益信による豚の輪切りを立体にしてたアート。それはリアルなブタのママで切っていたので、ともするとダミアン・ハースト的に見えてしまうものが、とてもユーモラスに見えた。表現が同じようなものでも、コンセプトが違うのがよく分かる。それでも、やっぱりサヴィニャックの原画の方が数段、愛が感じられてかわいい。

今や、ブラックなユーモアというものの存在が難しい世の中になっている。発信者にない意図を、ある受信者には違う意図で受信してしまうことも。ひとつは、ネットのタイムラグの無さや、スピードが、それをさらに助長している。難しい。人間は、どうしてこんなに複雑になってしまったのだろう。想像力というものの価値が世の中で見えにくく、軽んじられているとも想う。

その言葉にできない境界線というものを、表現者は大切に思っておく必要があるし、見る人もその真意を図りながら受け取る必要があると思う。

こういった、表現の言語化やルール化が難しいものこそ、蔑ろにしてはいけないと想う。肝に銘じたい。


サヴィニャックのような髭が生えているような柄のサビ猫を見つけて「サヴィ」とつけて飼いたいと思っていたけど、巡り会えたサビ猫はまったく想像だにしなかったデザインのサビ猫だった。事実・自然・天然とは、人間の想像力をいともかるやかに超えてしまうもの (㊀ö㊀)