宗達を
琳派にせんといて

宗達を<br>琳派にせんといて

琳派という言葉を見るたびに違和感を覚えてしょうがない。

正確には「俵屋宗達」を琳派の一員として扱われることへの、理不尽さからくるものですが。

みなさんご存知の通り琳派とは、尾形光琳からの光琳派が短縮されたもので、明治時代以降にどなたかが言い出した名前。それはそれで音の響きがいいとか、漢字の字面も美しいとか、そのあたりはよく分かるし、光琳以降を琳派とまとめてもらうのもノープロブレム。

しかし、宗達を琳派に入れたらアキマヘン。そもそも俵屋宗達という存在がいなければ、光琳は光琳になれなかった。その一番大切なポイントを、キャッチーだとか、言い易いとか、言葉の響きがいいとか、そんな表層的なことでおざなりにしないでもらいたい、と切に願う。

過去には、「宗達光琳派」という言い方もあったようで「宗達に始まる画風を光琳が大成した」と、ある。んなアホな!宗達はすでに完成されているし、光琳だって100年も前の絵なのに「スゲーなこれは!」と感嘆しながら模写していたハズ!!もちろん光琳には罪はないのだが。

わたしも風神雷神を描いてみて分かったのが、なかなかの縄文だということ。渦巻いてるし、ヒゲや眉やら、デザインの要素はまさに火焔型土器を彷彿させる。

縄文ついでに、遮光器土偶の「遮光器」もあれは遮光器なんかではないのに、創った縄文人も?に、なっているかと思う。他にもミミズクとか山形とか誤解を招くネーミングはどこかで改めた方がいいと思うんだけどな。とは言え、「シャコちゃん」とかついついキャッチーで使いやすいというのもよく分かるけど、、。

大体において人間はすぐにカテゴリに分けて名前をつけて整理したがる。それは一見分かりやすくなるけど、その限りでは当然なくて、かえってその本質が見えにくくなったりもする。

話は戻って、風神雷神図屏風。上が宗達のオリジナル。下が光琳の模写。
どうですか、みなさん。宗達のが圧倒的に素晴らしいと思いませんか?
オリジナルという創造性のすごさは言うまでもないが、光琳のものは模写として描いているのだが、本家のダイナミックな躍動感が小さくまとまっている。雷神の太鼓とか、風神の袋とかはあえて小さくしているのかなぁ?2人の視線を合わせたのも、あざとい。バランスが整理されすぎてつまらない。
ついでに言うと、オリジナルの宗達にはサインも見当たらない。クールだなぁ。カッコいい。
さらに言うと、宗達自身の生涯もよく分からなくて、当然ながら肖像画なんてモノも存在しない。イカしてる。

風神雷神図屏風について言えば、酒井抱一と鈴木其一と、後年になるに従いさらに小さくまとまってツマラナイものへとなっていく。小賢しいテクニックは上がり、身体性が損なわれていく。要するにプリミティブではなくなっている感じかな。好きなものこそ対峙するときには覚悟が必要なんだけどなぁ。オマージュというものの在り方を考えさせられる。


虎に関して。左が宗達。右2つが光琳。センターの虎は、ほぼ宗達の模写ですね。右のそれらの発展系が京都国立博物館のマスコットキャラ・トラりんにもなっている竹虎図。
こうして見ると光琳は、あるものからポイントを抽出して、整理して仕上げるのが上手い。ある意味現代のデザイナーっぽい。燕子花図などはまさにそう。

なんだかんだ宗達はアクが強すぎて、光琳はちょうどいいのか?分かりやすいのか?一般的に好まれるのもよく分かる。しかし、改めて世の中に言っておきたい、宗達あっての光琳だから。

核はどこにあるのか?ホンモノはだれなのか?曇りなき眼で見てもらいたい。

ちなみに本阿弥光悦の書と、宗達の絵のコラボがありますが、申し訳ないが、あれはあれでいただけない。光悦の文字には残念ながら絵心が感じられない。かなり宗達の絵を台無しにしてらっしゃる、、もったいない。宗達がそのまま文字を描いたものの方が100倍いい。どうも本阿弥光悦は過大評価されていると感じる。


ベアブリックの風神雷神。2008年トーハクの「大琳派展」で売ってたもの。でもこれも光琳Versionのもの。カラーリングを考えると宗達Versionだと地味になってしまうかもですね。ここでも光琳強しかぁ。
ウチのカミサマコーナーの仲間たちと (㊀ö㊀)