北風と太陽の
太陽で

北風と太陽の<br>太陽で

 イソップ寓話「北風と太陽」の太陽のようなデザインを目指したいと、ずいぶん昔から考えていた。
過去形なのは、久しく忘れていたからであり、備忘録を探してみると16年前に書いたものだった。

 思い出したきっかけは、最近身の回りに起きた出来事をモヤモヤと反芻していた時に、そうかそれらはまさに「北風スタイル」のやりとりであったな、と後悔。吹いてきた北風に対して、こちらも北風でかえしてしまった結果は、まったく解決のないまま時が流れるのを待つのみ。例え北風が吹いてきても、太陽スタイルでレスポンスできないものかと思案していたら、そうだった、そんな想いの積み重ねの結果が「イーヨウ」というネーミングにも込められていることも思い出した。ボーっと生きてちゃダメですね。

 さて「太陽」のようなデザインとはどういうことか、改めて自分に問うてみる。16年前には、ここまで深掘りをせず、感覚的なクリエティブのトーン&マナーのことだけで考えていたように思う。

 クリエティブやデザインと言っても、やはり核になるのは人間と人間のコミュニケーションのことだ。
つまりは、目の前の相手と太陽のような存在で接するとはどういうことか?

 「北風」と「太陽」から連想されるイメージの対比でピックアップしてみる。

 

「ひややか」と「あたたか」

「すみやかに」と「おもむろに」

「強制的」と「自主的」


 そんな感じが浮かんでくる。
 太陽に関してもう少し掘り下げてみると、


相手に寄り添う 

見守る

あくまでもバックアップ 

そっと促す

生涯助っ人


 なんてスタンスの印象だ。そして、相手に奉仕をしている訳でもなく、自然体で接しているような雰囲気もある。

 ここから、さらにブレイクダウンしてみる。

 暖かいというのは、言わずもがなであろう。
急いては事を仕損ずる。まずは時間をかけてゆっくりと向き合うことだ。まずは落ち着こう。
自主的とはどういうことか、もしかしたらこれが一番大切なポイントではなかろうか。当人にとって内なる己から溢れ出たものであり、それは無理がない自然な状態。すなわち自分でそうしたいからそうしたという事であり、その瞬間、太陽の存在は裏方にまわっているのだ。

 少し話は飛躍するが、コミュニケーションにおいて、北風的なアプローチとして「ダメ出し」というものがある。ついついこちらもやってしまうところは反省点である。頭ごなしにこうしなさい!といった命令や指摘では、身体が動くだけで、自分(相手)のこころが起動していない。最終的に定着させるには、自分の一部に「それ」が収まらないといけない。無理強いでは継続に繋がらない。

 はて、北風が「ダメ出し」的アプローチだとすれば、太陽のアプローチは何であるか?

 AIに聞いてみると「ホメ出し」なんてうまいことを答えてくる。一過性のものならあるかも知れない。褒めて伸ばす的なアプローチだ。しかし、どうもあまのじゃくな感覚だと何も成していない状態をホメるのは嘘くさいし、その先が実はないのでないか?深い関係性を持たない人たちに対しては有効であろうが、ほんとに深く付き合う人間にははたしてどうかなと思う。なにしろ本当に人を褒めるというのは、実はとてもむつかしい。わたしには。

 最終的に相手に期待をするのは同じアプローチだが、「そうなるとわたしはうれしい」は最強ではないのかと思う。「他者の喜びが、自分の喜び」といったものだ。あの人のためにやろう!というマインドが起こること、それが自主性だ。「そうなったらうれしいなぁ」とこちらの希望だけを投げる。
言わば「のぞみパス」みたいなことか。「ダメ出し」から「のぞみパス」へ。

 そんな太陽のコミュニケーションのことを別の側面から見ると「Glow with Compassion」という感じなのかな。

 そうありたいものだ。と、また忘れてしまわないように (㊀ö㊀)