しるとわかる

しるとわかる

 「知る」ということへの価値や、ありがたみというものが必要以上に増していると感じる。TV番組でもクイズや知識系のコンテンツを多く目にする。日常、何か疑問が生じるとGoogleやWikipediaがたちどころに解決してくれたりもする。それはそれでありがたい世の中になったのだが、果たしてそれでいいのかなとも思う。

 「知る」には即効性があるが、「解る」には時間がかかる。

 SNSやらなんやらとデジタルでスピードの時代に、スロウなものは合わないのかもしれない。しかしながら、そのスピードは人間の速度にあっているのだろうかと思う。最短距離で情報を得て解ると脳は喜ぶんだろうなぁ。と思う。即効性のものは、効果の持続時間も短い。ネットでの♡やブックマークも同様。何かをゲット!したような気になるが、あれは何だっけ?と、すぐに忘却の彼方へ、。

 これは提供する側、作り手サイドの問題でもあるのだが、例えばデザインやアートなどを言葉や情報で解説し過ぎだろうと感じる。展覧会の音声ガイドは少し親切すぎやしないか?「知る」ことはできても「解る」には、もっと「見る」と「感じる」といった作業が必要なのに、「知る」のインプット作業で脳みそは満タンになりそうだ。

 モヤモヤとしていて何だか解らなくても、己の脳ミソから溢れでる想像力を駆使することが何よりも楽しいのに。分からなければ、分かるまでずっと考え続ければいい。その時間をおしんで近道をしようとしても、そんなに簡単に答えが転がっているわけでもない。

 デザインには、テーマやコンセプトがあるのでスタートは言葉からはじまることが多いのも確かだ。音楽における詞が先か曲が先か、みたいなものでもあるが、同時にインストなんていうのもある。ちなみにわたし自身は、歌詞も音の一部のように聞いているのでぜんぜん歌詞は覚えられないタイプである。

 話を戻すと、デザインは言葉からはじまるが、最終的に言葉で終わるわけでもない。むしろ言葉ですべてが説明できるものほど、ツマラナイものはない。これは、世の中の多くにあてはまることでもある。人間だってそうだ。他人はおろか自分のことさえすべてを言い尽くせるものでもない。言葉で明文化できることは、たいしたものではない。本質は、言葉にできない部分にひそんでいるものだ。

 今や「縄文」でさえ人にうまく説明がつかない言葉になっているなあ。と、考えていたところに同じような事がタイムリーに起こる。2021年「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に選ばれ、ユネスコに提案する推薦書にはJomon Prehistoric Sites in Northern Japanとあり、縄文は「Jomon」そのままの表記である。「Cord Marked」という英語が「縄文」と和訳され、それが英訳で「Jomon」となる。「縄文|Jomon」という固有名詞が、縄目の紋様という見た目を説明する

 ものだけでなく、思想や文化をも含む他に代替のできないもの、翻訳不能なものになっていると、多くの人たちも感じている結果という事ではないだろうか。

 はてさて、縄文の土偶たちの存在は一体何なのか?

 というその核心に近づくには、その土偶たちを縄文の人間たちと同じ視点になるべく、ありったけの想像力を駆使して視ることが必要になるだろう。その深層を深く深く注視する。仕入れた情報やデータ的なものは、いったん脇へ置いておく。そして待つ。また視る。「そして相手が心を開くまで黙って待つのである。」と、かの白洲正子も骨董への対峙の仕方で言及している。本質をつかむには、時に情報がじゃまにもなる。

 縄文の人間たちは、言語が無かったのではなく必要としなかったのではないか。そして、言語化できないのを分かっているからこそ「土偶」という形にして表現したのではないのか。それをまた言語化、明文化を試みることはナンセンスと言えはしないだろうか。

 はじめて出会った名古屋の土偶たち。少ないながらも前期から晩期〜弥生までと時間の幅がスゴイ(㊀ö㊀)