アフリカンは
アノニマスな

アフリカンは<br>アノニマスな

幼少期の出会い、それは人間という生物、女性、仮面、色彩、道具、それらを美しいと感じる「こころ」のめざめでもあったのかと、今にして想う。おおげさかもしれないが。

「アフリカ」は、気になる存在としていつも傍らにいたけど、ぐるっとまわって高校生くらいからマティスやピカソをフィルターにして再確認がはじまり、木彫りのマスクや人形の造形美に夢中となりコレクションしだした。
オブジェの中では圧倒的にマスクが好きだが、なかなかどうして椅子やテーブルなどの家具のデザインもすばらしい。所謂デザイナーズ家具のような制作者の思惑のようなものが全く前面に出ておらず、かといって機能を優先しているという訳で全然ない。それらのオブジェから感じられる、原始的な人間美は何とも言えずにわたしには心地がいい。

自然なアールには、猫もぴったりとくるのか

パリやバルセロナにあるプリミティブ関係の博物館やショップに行くと、そこで携わっている人たちが好きが高じてやっているだろう空気が肌で感じられて、彼らの日常生活の近いところに「アフリカ」や「プリミティブ・アート」が存在しているのがよくわかる。マティスやピカソが、アフリカン・アートに触れたのも自然な流れだったのだろう。

日本でも「縄文」が、アタリマエの存在として、日常生活に共存するものになるといいなと、日々想う。

何はともわれ、人間のはじまり。

現代に生存するすべての人類は、アフリカ人女性イブから始まっている。近年では約16±4万年前とされていたり、それ以外の説も出てきていたりするみたいだけど。人類が、アフリカから生まれ、そして世界に広がっていったということは、何とすばらしいことか。何万年も経っているのに、人種差別をする人間の構造は理解はできるが、感覚はまったく分からない。

人類みな兄弟。笹川会長は、アフリカからはじまる人類の話をふまえての言葉だったのだろうか。
夕方流れていたCMは、コレ見たら習い事に行く時間という合図みたいなもので、なんだか憂鬱な気持ちになるサブリミナルなものとしての記憶だけが残っている。

話を戻そう。

同じアフリカ発だが、エジプト文明にはあまりピンとこない。
権力の表現として、あまりに巨大なものをありえない人力で作ったり、挙げ句土地さえも砂漠化してしまう強引さ。支配欲が強すぎる。今で言うならまるでブラックな政治状態だし、自然までもコントロールしようと試みるのは共感できない。その考えは弥生以降の日本にも相通ずるものがあると感じる。

創造物なども分かりやすく、大きかったり、超絶に具象で精密だったり、金襴豪華だったりして、民衆に見せつけるにはそこが重要だったのかもしれないが、見たこともないオリジナリティや創造性の凄みのようなものは(わたしには)あまりというかほぼ感じられない。受け手にも想像力を要する余白というものが、部族系のそれらには存在している。
日本で置き換えると、金閣寺や東大寺などの「凄みがむき出し系」と、縄文土偶・土器などの「凄みが視えない系」との関係みたいなものか。

わたしの好きなアフリカものは、少数な民族たちから溢れ出ている、その部族ならではの創造物がいい。そのオブジェにみえる、あるルールに沿っていながらも、創り手のアレンジがあふれ出ているのは、縄文土偶での地域ごとに現れるバリエーションとよく似ている。

そんなアフリカン・マスクたちは、それぞれにどれもいいが、ルバ、ペンデ、ダン、クウェレなどの部族の人たちが創る「目を閉じているかのような表現」のものたちには、特に惹かれる。
これらからは、縄文土偶にある「目の表現」と近い想い・コンセプトを感じる。それは、プリミティブな人間が持っていた共通の感性なのかな。相手に脅威や威圧感といったものを与えず、「力」というものをことさら誇示しない方向性のモノづくり。
そして、クウェレ族の顔におけるハートの扱いは、土偶のハート・フェイスを彷彿とさせるものだし、彼らの造形は完成度も高く美しい。

そして何よりもアフリカン・マスクにおいて大切なのは、アノニマスだということ。神に奉納するものとして、それは自分ひとりの力の成果でもないし、また人間の力だけのものでもない。

マスクを創る人間は、創っているところを他人に見られないようにするとか、創った後は森の中に誰にも見つからない場所に何日か置いて精霊が宿るのを待つとか。仲間内でさえ誰が作ったものなのか?儀式やダンスの最中もマスクを被っている人は誰なのか?分からないという。徹底している。

それが仮面の正しい作り方、使い方であり、祈りというものは、そういうことなのだろう。

現代社会に置き換えると「善行を人知れず行う」ことに近しい行為なのか?

また仮面という存在は、その地域での神の多様性を現している。それは、各々が想うナニモノカを自由に表現し、また憑依する・できるということ。神は一人でもないし、間違っても、自分が神になるわけでは決してない。
八百万の神を感じるには、人間の想像力と受信力がいかに大切か。

また、アフリカの色彩を考えると、縄文にもそれなりに色彩があったんだろうと考えるのも普通だろう。土偶や土器には、漆の黒や朱色が残っているだけど、よく再現されている縄文人たちの着ている服は地味だ。
縄文時代だって、いろんな花は咲いていただろうし、植物や昆虫や自然には色彩も溢れていたはず。むしろ現在より天然色に溢れていたのではないかと思う。この間のコロナ禍での自粛中だけでも、空の色は違っていた。古代の天然色はさらに然るべし。

そして、土偶や土器といった、あれだけのものをデザインできる美意識がある人たちが、着るものにもそれ相当なこだわりがあったと考える方が自然。ピアスとかアクセサリーのデザインもかなりモダンなものだ。

それから、いろいろとアフリカンなデザインを見て思うのは、古代の文様に多く見られる「渦巻的」なものが少ない。なぜだろう?
近いものでペイズリー柄はあるけど、ペイズリーには、微生物とか植物とかそういった生命力は感じるのだが、ぐるっと廻って戻ってくるような輪廻のようなメッセージ性は薄いのかな。そういえば近年の草間彌生の魂シリーズも、微生物な生命力を感じる。

ちなみに日本では昔、ペイズリー模様を勾玉模様とも呼んでいたそうだが、なるほど!勾玉だとすると、2つ合わさると陰陽☯︎の渦には、なるなぁ。ふむ。ここらはまだわたしの中で、ナマニエなのでいつか改めて整理してみよう。

Pediastrum|BWA, SUN MASK, Burkina Faso

ペイズリーついでに微生物のデザインってやつもすごい。クンショウモは、まるでブルキナファソ・ブワ族のマスク(⊝.⊝)