対価とは
ナニカ?
2020 06.21 15:41
対価について。
例えば、デザインの対価について考える。
一般的な対価に時間で換算なるものがあるけど、 ことさらデザインに関しては、最終的なアウトプットされたモノになる前の、思考時間や試行錯誤など、表に出てこない、何もカタチになっていない時間こそ、一番長いデザインの時間だったりする。それはカタチになってからもを一旦寝かしたり、また起こしたり、壊したり、捨てたり、再生したりと、、常に何らかの動きがある。それらは睡眠中にもやってきたりと、どこからどこまで仕事中なのかは、換算不能。
ピカソのエピソードで、知らないレディに何か描いてくれと頼まれて、その場でササって描いて「はい100万ドル」だよと言ったら、そのレディが「あなた、たった30秒で描いたものなのに!」と抗議されピカソは「お嬢さん違うよ、30年と30秒だよ」と切り返したとか。面白い。よくわかる。猫に小判というやつですね。これは対価というものへの見えない「想像力」の話。
プロ歌手に一曲歌ってよ!なんて軽々しくリクエストするのも同じ。何をもってその人に対価を返せるのか?という話。これはけっこう難しいクリエイティブな作業だと思う。
あたりまえですが、制作時間をかければ価格が高くなるものではない。また、努力して時間をかければいいものができるわけもはない。要は中身の問題で、濃さ✕長さ✕時間となると、どうにも追いつけないほどの差ができてしまう。そして、実力がある人ほど日々そういう自分に課してるものがあったりするんだろう。
見せない努力か、もしくは当人は努力と思っていなかったり、とインプットはなおさら見えにくい。
むかし、Webサイト黎明期に、とあるプロジェクトでエレクトロニクス系のクライアントのから工数で見積もりが欲しいと言われ、なるほどそういった考えてエンジニア系の方々は動いているのかぁ。と感心した記憶がある。
それまでの広告・デザイン系は、媒体とか仕様とかでおおよそのプライスが決まっており、まあどんぶり的な感じでコストはなんとなくは見えており、非常に細かい(自分たちからすると)端数まで対価に現れるというのは、分かりやすいけど、それで見積もれるのかという思いは今でもある。
時間は個人的には、まあ目安みたいなものとして意識しておくといった感じか。
上がりのクオリティには、正比例する訳ではないのだ。
やはりそうなる、相手というか対する人間が見えてこそ対価というものがあるのではないか。
PAY RESPECT
PAY MONEY
という言葉が英語であが、敬意もお金もどちらも「払う」ものとしている。
自らの一部を払い、差し出すようなイメージが浮かぶ。
と言いつつも現代は、対価の対象としてお金が全てになっているのがもうひとつの問題だったりする。
今やもうお金の存在しなかった時代には、戻ることは不可能だが、お金そのものに価値を見出している人たちが、現代では多すぎる。もともとは対価をあらわすものに、毎回物々なり等価なものを考えるのも大変なので分かりやすくするために共通認識として「お金」というものが作られたのだが、今やお金そのものに一番価値があるような状態に逆転しているのではないか。
もしも戻れるなら、ホントは仕事は対価交換や物々交換でもいいんだけども。
双方共に想像力がないと成立しないので、とても難度は高い。
また、対価交換なら大富豪やIT長者のような莫大なサラリーは生まれないだろうしね。しかし、それは実は真実なのではないだろうかとも思う。
アイヌは金銭のやりとりを嫌い、アイヌ内では物々交換を行っていたと聞くが、さらに遡る縄文時代の土偶や土器への対価は何だったのだろうか。そもそも対価があったのかさえも疑わしいことでもある。
そして、いくら値がついても売らないもの/売りたくないもの存在する。それと、釣り合う対価になるものが見つからない価値。
猫との対価で見てみると、彼らは人間に癒やしとか気づきといったものを日々与えてくれ、われわれはそれに対して美味しいご飯や、居心地のいい場所の提供や、猫じゃらしに付き合うといったお返ししている。それは、まさに物々交換であり、お互い様の理想的な共生関係。
猫に小判って諺があるけが、あれも人間目線からの猫に失礼な言葉かも知れない。猫は小判の価値が分からないのではなく、自分たちにとって小判は、何の役に立たないものだと分かっているのではないか。猫には御飯だよと。それは、人間とて同じ。いくらお金を持っていても、売買できない状況では何の腹の足しにもならない。
ともあれつまるところ「金は後からついてくる」というスタンスでこれまで生きてこれたので、これからもそんな感じで生きていければと想う (㊀ö㊀)





