対価とは
ナニカ?

対価とは<br>ナニカ?

対価について。

例えば、デザインの対価について考える。

一般的な対価に時間で換算なるものがあるけど、 ことさらデザインに関しては、最終的なアウトプットされたモノになる前の、思考時間や試行錯誤など、表に出てこない、何もカタチになっていない時間こそ、一番長いデザインの時間だったりする。それはひとまずカタチになってからもを一旦寝かしたり、また起こしたり、壊したり、再生したりと、、常に何らかの動きがある。それらは睡眠中にもやってきたりと、どこからどこまで仕事中なのかはとりあえずは換算不能。

ピカソのエピソードで、知らないレディに何か描いてくれと頼まれて、その場でササって描いて「はい100万ドル」って言ったら、そのレディが「あなた、たった30秒で描いたものなのに!」と抗議されピカソは「お嬢さん違うよ、30年と30秒だよ」と切り返したとか。面白い。よくわかる。猫に小判というやつですね。これは対価というものへの見えない「想像力」の話。

プロ歌手に一曲歌ってよ!なんて軽々しくリクエストするのも同じ。何をもってその人に対価を返せるのか?という話。これはけっこう難しいクリエイティブな作業だと思う。

あたりまえですが、制作時間をかければ価格が高くなるものではない。また、努力して時間をかければいいものができるわけもはない。要は中身の問題で、濃さ✕長さ✕時間となると、どうにも追いつけないほどの差ができてしまう。そして、実力がある人ほど日々そういう自分に課してるものがあったりするんだろう。

見せない努力か、もしくは当人は努力と思っていなかったり、とインプットはなおさら見えにくい。

むかし、Webサイト黎明期に、とあるプロジェクトでエレクトロニクス系のクライアントのから工数で見積もりが欲しいと言われ、なるほどそういった考えてエンジニア系の方々は動いているのかぁ。と感心した記憶があります。
それまでの広告・デザイン系は、媒体とか仕様とかでおおよそのプライスが決まっており、まあどんぶり的な感じでコストはなんとなくは見えており、非常に細かい(自分たちからすると)端数まで対価に現れるというのは、分かりやすいけど、シビアだなぁと、、。

時間は個人的には、まあ目安みたいなものとして意識しておくといった感じでしょうか。
上がりのクオリティは正比例してくる訳ではないものなので。

やはりそうなる、相手というか対する人間が見えてこそ対価というものがあるんじゃないかと。

PAY RESPECT
PAY MONEY

って言葉が英語であるけど、敬意もお金もどちらも「払う」ものとしている。
これけっこうしっくり理解できるなぁ。

と言いつつも現代は、対価の対象としてお金が全てになっているのがもうひとつの問題だったりする。
今やもうお金の存在しなかった時代には戻ることはできないけれど、お金そのものに価値を見出している人たちが今や多すぎるとも思う。もともとは対価をあらわすものに、毎回物々なり等価なものを考えるのも大変なので分かりやすくするために共通認識として「お金」というものが作られたと思うけど、今やお金そのものに一番価値があるような状態。

もしも戻れるなら、ホントは仕事は対価交換や物々交換でもいいんだけども。
双方共に想像力がないと成立しないので、とっても難度が高いと思うけど。

対価交換なら大富豪やIT長者のような莫大なサラリーは生まれないだろうしね。本来なら自分ひとりではそんな事はできなかっただろうしね。必要以上にはお金は必要ないしね。

アイヌは金銭のやりとりを嫌ってアイヌ内では物々交換を行っていたというけど、その考えの礎なる縄文時代の土偶や土器はどうしていたのだろうか?
素晴らいいブツを創ってくれたお礼は何だったのだろうか?知りたい、、。

一方、いくら出されても売らないもの・売りたくないものある。対価になるものが見つからない価値。それはいったい何なのか?そこは何なのかは、誰でも気がつける訳ではないと思う。気がつくかどうか。

猫との対価で見てみると、彼らは人間に癒やしとか気づきといったものを日々与えてくれ、われわれはそれに対して美味しいご飯や、居心地のいい場所の提供や、猫じゃらしに付き合うとかでお返ししているまさにお互い様での理想的な共生関係。

猫に小判って諺がありますが、あれも人間目線の猫に失礼な言葉ですよね。猫は小判の価値が分からないのではなく、自分たちにとって小判は、何の役に立たないものだと分かっているんだと思う。そんな面倒なものでなく飯よこせ。猫には御飯だよと。人間だってそう。なんぼお金があっても、売買できない状況では何の腹の足しにもならない。

ともあれつまるところ「金は後からついてくる」というスタンスでこれまで生きてこれたので、これからもそんな感じで生きていければと想う (㊀ö㊀)