アウトサイドで
いいじゃないか

アウトサイドで<br>いいじゃないか

ここでのアウトサイドとは、いわゆるアウトサイダー・アートについての話。

精神障害などをもった人たちの絵に対し、1945年にデュビュッフェがアール・ブリュットと呼びはじめたのがはじまりと言われている。
ブリュットとは、フランス語で「生の」という、英語では、Rawか。英訳だったらRaw Art の方が近いのですかね。
その後、1972年以降にイギリスでアウトサイダー・アートと呼ばれるようになったもの。近年では、正規の美術教育を受けていない人たちも含まれており、境界はあいまいになっている。

個人的には、30年くらい前から主流だったアウトサイダー・アートという言葉に慣れ親しみがあるので使っているが、それ以上でもそれ以下でもない。

大切なのは、そこに何が在るのかということ。

何故に創造物を生みだしているのか?ということでもある。
彼らは、誰かに、または何かに想いを伝えようとあがく。
名声が欲しいとか、尊敬されたいとか、お金が欲しいとか、そんな自分の欲のことは後回し。その純粋さに、一途さに、強い想いに、なによりも惹かれる。

そもそも原始美術はどうなるのか?
わたしにとって、旧石器時代の創造物は、現代美術と比べても見劣りのないいけてるモノだと思っています。むしろ時代を考えると、古代人の創るモノの方が圧倒的だ。

Dolní Věstonice | Lespugue | Willendorf

Henri Matisse | Henry Moore | Constantin Brâncuşi

上が、旧石器時代のおよそ29,000〜22,000年前の、左からチェコのドルニ・ヴェストニッツェ、オーストリアのヴィレンドルフ、フランスのレスピューグのヴィーナスたち。

下が、アンリ・マティス、ヘンリー・ムーア、コンスタンティン・ブランクーシといった20世紀を代表するヨーロッパのアーティストたちの作品。

例えば、これらが美術館の同じ部屋に展示されていたとして、何の違和感もないんじゃないでしょうか。

しかしながら表現のカタチは似ていても、表現の理由というものが、ぜんぜん違うのがよく分かる。うまく言語化できないけど、人間の創造物への向き合い方というものを教えてもらえる。

教育を受けたから価値があるとか、ないとかでは無く、大切なのは誰から、または何から教えを受けたのか?ということなのか。
多くの人間が画一的なカリキュラムで学ぶ場には、クリエイティブな事に関しては限界があるんではないだろうか。

話はそれるけど個人的に、「日常」が無いクリエイターはいいとは思えない。一日中絵しか描いていない生活とか、そんな環境はダメだなぁ。本人にとってよろしくない。人間がダメになる。仕事は人生と共にある。

そしてまた教育を受けた人の中でも、教育を受けていない人の中でも、その分野において図抜けた人間はごく一部というだけのことだったりもするのも事実。

知的障害がある人たちもしかりで、誰でもアウトサイダー・アーティストという訳ではない。

が、しかし同時に誰でも何かに可能性があるのも確かだ。
それは、どんな人でも皆同じだなぁと思う。

みんなになにかの可能性があると思う。ホントに。

それは言わなれば使命とか、天職ということなのか。

アウトサイダー・アートには分かりやすく、つまるところその人の中身の人間というものがムキ出しになるような感覚がある。それは彼らには、戦略というものがない、もしくはそんなことは考えられないし考えたくもない。「そんなの関係ねぇ」という純粋さ、美しさ故のものなのか。

だからこそ、見る人もそこを見極める感受性や受信力を意識して鍛えないと、と心して思う。


ねむの木の子どもたちの絵は、とても優しい。
大きな愛に包まれている。と、感じる。
宮城まり子さんという強力なリーダーがあってのことだろうか。これが、世の中の「日常」にならないと、ほんとのダイバーシティとは言えない。(これを書いている最中に宮城まり子さんの訃報が。永きにわたりありがとうございました。まさに文字どおり死ぬまで生きた方ではないかと思います。)

近年は学歴や、組織や、一見分かりやすいもので人間を評価したがるが、本当に大切な人間の価値。優しいとか、頼れるとか数値化できない人間への評価というものが、同軸で語られない。

これもしかりで、受信する側の人間に能力が必要になるからか。
物事は、よくも悪くも額面どおりではない。
人間はそんなに単純ではないだろう、わたしも、あなたも。

息子が描いた絵。人間。猫のザクロ。
親バカですが、なんだかすごくJOMONOW! (㊀ö㊀)