ムナーリの
カオがすき

ムナーリの<br>カオがすき

あらゆる形態をフリーダムに、かるやかに飛び越えて、さまざまなデザインというものを生みだしたブルーノ・ムナーリですが、(わたしと同じで)人間の顔にも結構な興味があったんじゃないかと、まことに勝手ながらに推測させていただいております。

また顔の表現のテイストも、その多くはプリミティブな表現がにじみ出ているように感じるのだが、いったいムナーリのプリミティブ性とはどこからやってきているのだろう。

この「にらめっこしよう」というページのない本も、かなりプリミティブなテイストに溢れたカオ、カオ、カオ、カオ、、。


ムナーリのデザインを見ていると「子ども心をもった大人」とはまさにこういった人のコトだといつも想う。

でもムナーリは子ども相手でもアウトプットは大人で、プロの完成度をもった表現で決して子ども向けのものではない。子どもをなめていないと言うか、子どものすごさと可能性を分かった上でのデザインなんだろなぁ。

子どもたちとのワークショップでは、いっしょに楽しんでいるだろうなぁという雰囲気は容易に想像できるが、実際どんな風に子どもたちと接していたのか見たかったですね。

そこで想う、「子ども心」と「プリミティブ」の双方はに大きな関連性があるのではないか。
うまく説明はまだつかないが、どちらも無垢で開放的だからなのか、多すぎない情報で生きているからか。
子どもの描く絵と、プリミティブアートが近かったりするというのもある。

総じて子ども心を持ち続ける人は、常に自分を開放しているからか、楽天的だからなのか、長生きな人が多いように思います。
とかく、画家とかは90や100でも創作している人は少なくない。むかしの話かも知れないが、同じ芸術でも純文学などの作家は、自分の内面に深くに向き合うせいでしょうか、あまり長生きな人のイメージがないですね。

創作のはじまりに、ダレかに、ナニかに、自分以外の存在に頼まれている人は、自分を必要をされている存在意義からくるエナジーがたくさん溢れ出るとか??

むむむ、このあたりはまたどこかで掘り下げてみよう。

ムナーリの書籍でカオな感じのものを本棚からざっと集めてみた。けっこうなカオ率?

顔フェチといえば、Faces in peacesというサイトがあって「なんか顔みたいだね?」という写真ばかりがひたすら集まっていて、●● があるだけで生き物の目に見えてしまう人は世界中何処も同じなのね〜とよく見ていたんですが、更新されなくなって久しく残念です。

むかしから●●だけでなくいろいろなものがついつい顔に見えてしょうがなかったが、人間の「顔」というものはふしぎで面白いものだなぁと、改めて感じる。

目と耳、鼻の穴は2つ、口は1つ。哺乳類の多くは共通しているけど、眉毛があるのは人間だけだったりするのか。
しかも、土偶においてはそれはひとつの大きなアイコンとして強調され表現されている。眉毛から鼻を1つにした表現が多い。縄文人は眉毛がつながるくらいの存在感が強い人が多かったのか。いやそれだけでは説明できない、あれら土偶たちの描かれ方は。

じぶんが絵を描くのも圧倒的に、顔が描いていて一番楽しい。
どうも首からの下の、体手足を描くのは、おまけくらいに感じるときもある。

土偶でいえば、顔しか出土していないものは、それはそれでもOKなんだけども、胴体や脚などだけで顔がないものには今ひとつ魅力を感じないところがある。(土偶に罪はない)

違いが、個性が、にじみ出ているはやはり「顔」なんだよなぁ。


先日、 ウチの子どもと思い立って武蔵野ふるさと歴史館に行きまして、タイミングよくいらした学芸員さんによくしていただき、井の頭公園から出土されたチャーミングな土偶を見せていただきました。眉毛&鼻の存在感がスゴイ(⊝.⊝)