改めて
想いい
2020 09.17 20:00
イマ改めて、この「OMOii|想いい」について想うこと (for ME)
どうしてこの「想いい」を書こうと想ったのか?
先人たちの、
何に気づかされ?
どこに影響をうけて?
どう人間形成に作用して?
これからどう生きていくのか?
はじめに想ったのは、そんなところだろうか。
約半世紀をこの世に生かされてきて、折返し地点としてここらで今一度、自分自身への棚卸しをこころみたい。それが、自分自身への客観的な視点を持ったアップデートになるといいなという希望的観測でもある。
いつもなんだかんだと脳ミソが稼働しているのだけど、アウトプットとしてカタチに吐き出し、それを第三者的視点で客観的に見えてくるものは、少し違う風景ではなかろうか、と。
それを見るには、頭の中で思っているだけでは駄目で、ひとレイヤー外に出さないとダメじゃないかと実感している。特に、自分には甘い部分が目一杯あるので、オープンにすることも必要なんだろうと。
ずいぶんと前に、影響を受けた好きな人やモノたちを描き出してみたのがMy Map。その時は、ただツラツラと描いてみただけで、その先は何も深堀りもしないまま何年も寝かせていたが、ある日、その奥を覗いてみようかと想ったのこともきっかけのひとつだ。
My Mapに描きだしてみた人やモノたちは、意識はしていなかったが、ほぼ過去の人・モノだった。何だろうな、作品以外のいろいろな部分はそんなに知りたい訳ではないからかな。
BANKSYだけが、存命なハズだが、素性が分からない人なので、生きているのか死んでいるかもあまり関係ない感はある。(このまま写楽のように謎でいてほしい)
これまでは、言葉をそのままテキストとして表に出すことはほとんどしてこなかった。もちろん、デザインはある程度は言葉を使い思考するのだが、最終形はビジュアルに変換するものなので、いわゆるコミュニケーションはノンバーバルでいいじゃないかと考えていた。
表に自分というキャラクターの存在を出さないスタイルでずっとやってきて、それこそ広告の仕事は完全なる裏方であり、元をたどると匿名でいいことをするというのが最高の醍醐味だった。
あえて名前を出さずにアウェーな状態で仕事をするのというのも愉しく、その根幹は今でも同じなのだが、言葉は言葉としてのよさもあることに、最近改めて感じていることが大きい。
良くも悪くも世の中の動きが変わってきたのも事実。
現代は、情報過多により選択肢はあまりにも増えたが、ほとんどはどうでもいい情報だったりもする。生きていく上で、偶然を減らす行為は、大切な体験の機会を失うことにもなる。世の中知らなくてもいいことや、知らない方がしあわせなことも多々ある。
情報とは表面でしかないのに、まるですべてであるかのようにありがたいものとして考えているんじゃないか。
ホントウは、魂や心。SOULやMINDといった表面に視えないものこそ、どうしようもなく大切ものだと想う。
こういった話は、日常でなかなかじっくりと話せない話でもあるし、たとえ話していてもそこでは流れていったりもする。ほんとうに大切な話は手紙(文字・テキスト)にしたためた方が、自分も相手に伝わるものだと考えている。
それからこれは、少数の親しい人に(こそ)読んでもらえればいいと考えている。
考え方をみんなと分かち合いたい想いから。シェア・共有というよりエンパシー・わかちあいのようなもの。
それは、縄文からはじまった人間の生き方を、再びメインストリートに戻したい。イマのかたちにアップデートして。
この「想いい」を少しづつ書いてみて感じてきていることは、わたしがデザインというものをどのように考えているのかにつながり、それを深堀りしていくとデザインへの視点は、自分はどう生きるのか?ということへと向かっていくようだ。
同時に、いかに子ども時代というのはとてつもなく大切な時間ということを考えさせらる。
それは情報や環境に惑わされる前に、確かに存在している本来の自我みたいなもの。多くの人たちはそこを忘れ、大人になって自分探しをはじめたりする。
わたしは、5才の頃からあまり変わっていないと常々思うけど、それは果たして本当なのか、思い込みだけじゃないのか?今一度確認してみたい気持ちもある。
PS: この「想いい」では、加筆・修正は気になったときにいつでもUPDATEしていく所存でございます。まさにルオーのこころで (㊀ö㊀)