ガチコミ
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ガチンコのコミュニケーション。

想いを伝える方法は多々あれど、一番強く心に響くのはドキュメントなスタイルだろうと、個人的には確信をしている。

こと広告のコミュニケーションもしかりで、奇をてらった表現も面白いし、そういったエンターテイメントまで昇華したものは大好きだけど、なんだかビック・アイデア!みたいなものや、送り手の思惑が透けて見えるようなものは白けてしまう。若い頃は、そういった「ヤラレタ!」みたいなアイデアばかりを毎日探して、考えて、創っていたりしたけど、30才くらいからはだんだんと、リアリティが感じられないものや、自分が信じられないものとは関わり合いはやめていくようになっていった。

例えるなら、美味くないカレーを売ることに加担はできない感じでしょうか。
広告業界では、美味くないカレーでも手法で売れるようにするとか、はたまたユーザーを飢えさせる状況をつくれば美味くなくても食べるだろうとか、そんなとんでもない技法を吹聴したり、またそれをありがたがったりする傾向もあったけど、本質が無いものはやがて終焉が来るものだ。

ガチコミなものでいうと2002年に作った「たそがれ清兵衛」の新聞広告。映画公開に合わせて完成台本を全公開するというアイデアは、気をてらったわけでもなく、ユーザー目線で自然と出てきたものだった。それは広告においての、自分の中でのコミュニケーションの気づきの瞬間でもあった。
ネタバレ注意という映画は、それはそういった類のもので、言ってしまえば2回見ないものともも言える。もちろんそういった映画があってもいいのだが、それとは思想が違うもの。そもそも原作:藤沢周平としっかりストーリーはあるし、何より個人的にはいい映画、好きな映画は何度でも見たくなるもの。むしろ完成台本を事前に読んだ方が、実際のシーンではどう演出されているのか?など見るほうも楽しみが倍増するハズだろうと考えた。

制作はそれはそれはギリギリの綱渡りで、そもそも完成台本は最後の最後に上がってくるもので、コピーライターとのやりとりも電話だけでの打ち合わせしかできなく、またこの文字量を当時のMac&イラストレーターで動かすのは、一文字を改行するだけで恐ろしく負荷がかかり、デザイナーとドキドキしながら新聞印刷が始まる数時間前まで焦りながら入稿したものだった。文字サイズが小さすぎて検閲で引っかかりそうになったけど、これはテキストではなく、ビジュアルであるということでなんとかOKになったりと、とにかくいろいろ大変だった記憶がある。

掲載後に、知り合いのプランナーの人が折りたたんだこの新聞広告全紙を持ち歩いてて、電車で読んでると聞いた時に「作ってよかったぁ」と感慨深いものがあった。

他にも(今でこそSNSのおかげて当たり前にできるが)Webサイトで、本日の撮影状況のお知らせをしていた。それはスタッフを撮影現場に送り込んでの、毎日メールをもらい更新するというまことに力技で発信をしていた。
CMでは、今度は逆に映画のシーンを全く見せずに、映画を観ているお客さんの涙する顔や、笑う人の顔だけを映し、オンエアされる毎に「泣いた人、笑った人 今日で142,503人」と実数を入れていた。これも毎度編集所で、その日の速報みたいなものを教えてもらい、その場で編集していたという人力作戦だった。

と、「たそがれ清兵衛」ではガチでリアルなコミュニケーションをいろいろと遂行。関係各所まわりの皆さま、改めて感謝申し上げます。

ガチコミな衝撃を初めて受けたCMは1986年のAudiクワトロのスキージャンプを逆走するものだった。多分。いわゆる実証広告をエンターテイメントに昇華させた傑作だと思う。

日本のお茶の間では、タレントが出てきて流行りそうな事を言ったりやったりするみたいなヌルいCMが多くて、こういったリアルなアプローチは新鮮だった。このCMをきっかけにカンヌ広告祭という存在を知り、世界のCMに魅了され、ビデオを探してよく見たりしていた。時は広告全盛期だったのかも。

同時代の日本でもジェミニ「街の遊撃手」シリーズは面白かった。シリーズも回を重ねると、どうしてもネタ切れになってしまうのが宿命だが。いまだったら、AudiもジェミニもどうせCGで処理しているんでしょ。と見ている人もさほど驚かなくなっているんだろうなぁ。技術の進化も一方で、人間の感動を退化させてしまうところもある。

一方で一番の気づきは、この2つのCMを見てもAudiもジェミニも、残念ながら車そのものは欲しくならなかったのが広告としての限界を感じたところでもあった

これらが仮にも車も満足行くデザインのものであれば話が違っていたかも知れないけども、そこは後に自分が制作者になった時に、どうしても割り切れなかったところである。自分が欲しくも無いものを売ることはできない。

秀逸なアイデアや力強い表現があるAudiやジェミニよりも、広告は知らないサソリのロゴをつけたアバルトのアウトビアンキやランチャやFIATパンダといった、そのもののデザインが魅力的な車の方が欲しくなるんだと改めて思った。

何はともわれ、やはりそのものの存在が一番大切。言わば「商品こそ広告」なのだろう。

ちょとそれって、縄文土偶や縄文土器と同じことじゃないのかと想う。
縄文人たちが、土偶や土器を介してどうコミュニケーションしていたのかは謎が多いけど、創造物そのものは確実に存在はしている。

だんだんと、昔のいわゆる広告・コミュニケーションという存在は息も絶え絶えになり、カンヌ国際広告祭も2011年からはカンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバルと名前を変え、それはそれで何だかよく分からない何でもアリのものになっている。コミュニケーションの技法だけを競うのはナンセンスな時代なんだろう。広告が世の中のメインストリートから外れているそんな今、TAIWANのクリエイティブには久々にハッとさせられた。落とし穴と出口のミニマムなヴィジュアル。メッセージもWHOへの存在を意識させつつ、穏やかなトーンで説得力を醸している。アウトプットはNEWYORK TIMESへの新聞広告よりも、Webサイトの方が思考の時間軸をうまくデザインされていたり、またSNSでの実質も見えたりして好きだなぁ。ドメインtaiwancanhelp.usもよく考えられている。

最初は、台湾政府の仕事かと思ったら台湾の若きクリエイター達のクラウドファンディングによってのアクションのようで、そこも今どきですね。このCovidへの対応の仕方を見ていると、先進国はどこなのかがよく視える。

大切なのは、「言動が一致している」こと。いい事を言うのは易しだけど、行動がそれに伴っていないとね。本質的はそこを見ないといけない。
順番的には、「動」ありきの「言」だと思う、そして究極的には「言」は無くてもいいと思っている。それはまさに縄文のコミュニケーションか。
「言」は、誰かから借りてきたり、人に教えてもらってそれなりにできたりもするけど、「動」は、日々から創られるし、それは自分自身でないと創れない。身につかない。そして、ごまかしもきかない。

その上で、さらにエンターテイメント溢れる深い広告表現をまた見てみたいものだ。

かしこみかしこみ (㊀ö㊀)